学習者ティペロプメントとは何か(Smith,R. 1994)

学習者ティペロプメントとは何か
リチャ ー ド・スミス

本稿では、 学習者ディペロプメントとは何か、 そのためのSIG をJALT の中に作る意味は何か、 という二つの疑問について考えたい。

学習者ディペロプメントの定義という問題に、 禅問答的に答えるとこうなる。 学習者ディペロプノントと いう用語は、 これまであまり使われてこなかった。 (実際、 我々は、 Sheerin (1989:34) にこの言葉を発見するまで、学習者ディベロプメントという言葉は我々が作ったと考えて いた)学習者ディペロプメントという用語は、新しい概念を入れるためのかばんのようなものだと考えよう。そうすると、 いろいろなことがわか ってくるかもしれない。 つまり、学習者ディペロプメントは、 いかなる既成の考え方にも当てはまらない、柔軟な解釈を許す用語なのである。

別の視点から考えてみよう。 仮に我々が、このSIGに学習者ストラテ・トレ ニングという名前をつけていたら、 北アメリカにおける実証的な研究の流れだけに依拠するこ とになっていただろう。この流れは「よい言語学習者」に関するRubin (1975)やNaiman et. al.(1978)の先駆的研究に始まり、最近では第二言語習得研究の文脈でO’Mally & Chamot (1990)、 Oxford(l990)などに受け継がれているものである。これらの研究は、 学習者がより効率よく学習し、自律していくことを助けようとするものにとっては、 考え方のヒントとして明らかな価値をもっている。しかし、 Rees-Miller(l993)が示したよ うに、 これらの考え方に無批判に与することは、どのような学習者ストラテジーのトレーニングが実際に効 果をあげるのかに関する証拠がない も同然なことを考えると、賢明なことではないかもしれない。 また、 教 師としてRiley(1985)に報告されたフランスにおけるCRAPELの仕事やDickinson(l987)など、 ストラテジーの研究とは独立してヨーロッパで進められてきた自律や自己統制型学習を目指す実践の伝統を無視するわ けにはいかない。

より広い意味を持つ学習者トレーニングという名前ではどうだろうか。この言葉の問題は、 学習者が自の学習を コ ントロールする能力(Holec(1985)のいう学習者の自律やDickinson(1987)のいう自己統制) を育てることに関心を持つ教師にとって意味を持つアプローチのいくつかが、 学習者トレーニングとはまったく別の伝統の中で発展し、論じられてきたということである。 サイレント・ウ ェイ、 CLL などのヒュー マニスティック ・ アプロー チ、ブロジェクト・ワークを含むタスク中心の教授法、学習者との交渉で作るシラバス、 セルフアクセスのシステムや自己学習教材一般の開発、言語への気づきのトレーニング、 あるいは言語の意溢化、 コ ミュニケ ーション・ストラテジーのトレーニング、スタディ・スキルのトレーニングなどが考えられる。 ここにあげたものがすぺてでないことに疑いの余地はないが、 要するに、学習者の自律を求める教師にとって、 学習者トレーニングとい う概念的枠組みは挟すぎるかもしれないということである。

それでは、IATEFLのLeamer Independence SIGのように、 学習者の自律をSIG の名前にしたらどうかという見方もあるだろう。しかしここにも 問題がある。 前述の北アメリカの伝統は、 学習者の自律を促すことより は、学習者に「よい言語学習者」の使うストラテジーを使うように奨励することで学習の効率をあげることを目的としているように思われる。 Wenden(l99 I)などのように、 二つの方向が対立しなければならない理由はないとする考え方もあるが、 SIG の中には、効字のよい学習を実現する手段としての学習者ストラテジ一のトレーニングに関心はあるが、学習者の自律という目的をそこに重ねて見ることを必ずしも受け入れるわ けではないという人のための場所を霞保するぺきであるかもしれない。

つまり、学習者ディペロプメントという用語を選んだのは、 まさにその曖昧さと、 それに付随する許容範囲の広さのためなのである。 そうすることで、これまで別々に存在してきた広い範囲の関心を統合できれば いいと思う。 以上の議論をまとめれ ば、 目的としての学習者ディペロブメントは、以下の2点のどちらか、あるいは両方を意味すると解釈できる。(I)学習者が学習の方法を学習することを助け、より効率のよい言語習得と言語使用への道として、 彼らが学んだことを利用する。(2)より一 般的なエンパワ ーメントの手段とし て、教師に依存する感度から、 自分自身の学習に対してより責任を持ち、自分で学習をコントロールする方向に、 学習者を乳撃れさせる。 このように問口を広くとることで、 教師の活動としての学習者ディペロプメントは、 以下のような幅広い領域を情報源とすることができる。(1)学習者ストラテジー、学習スタイル、 学習に関する信念についてすでに出版された研究や、 これから発表される、あるいは始められる研究。(2)学習者トレーニングをはじめとする各植のトレーニング(スタディ ・ スキル、言語への気づき、コ ミュニケ ー ション・ストラテジーの使用など)、 学習者との交渉によって作るシラパス、 自己学習、 セルフ ・ アクセス、プロ ジェクト・ ワークなどについてのすでに公にされた実践報告、 およびこ れから考え出されるアイディアの実 践報告。

以上述べたようなリソースに関する議論の場であり、 それらの実践での統合をめざす学習者ディペロブメントN-SIG は勉強会的性格のものになるだろう。 結局、学ぷぺきことは多いし、 特に背景となる研究の中には、 実践的目的のための解釈が難しいものもあるからである。 しかし、学習者ディペロプ.Iントというプデ ィングの価値は、 最終的には食ぺてみて決まる。 教師のグルー プとして、 我々は、行動を起こす代わりに話をしてすませてしまわないように、 特に用心すべきなのではないだろうか。 Rod Ellis は最近「知識と熟練を作り上げる方法の一つは、 研究を通じてではなく、 学習者トレーニングの首尾一貫したブログラムを作ろうとする教師によることである」 (Ellis,1993:9)と提案したが、 我々はそれに力づけられてよいのではないか。 新 学期が近づいている今ほど、 新しいことを始めるのに適した時機はない。 我々の学生のために、 学習者ディペロブメントを実践する方法を考え始 めようではないか。 シラバスや教材·教授法に関して、 実践での成功や失 敗を幅広く共有できた時に、 このN­SIG は教師による一種の継続的討論 会として、有意義な役割を果たすことができるだろう。 それは我々自身と我々の学生のためだけでなく、 他の人々の利益にもなるだろう。 学習者ディペロブメントを実践しようとする人を支援すべき材料(理論ではない)は比較的少ないように思えるからだ。 Dickinson (1987),Ellis & Sinclair (l 989), Willing (1989), Oxford (1990), Wenden (1991)などマニュア ルや教科書は存在するし、 それらは我々が正しい方向に向けて出発するのを助けてくれるだろうが、 実践的 アイディアの最良の情精源は、他のメンバーの経験だということになるかもしれない。 そして、 多様な実践 的アブロー チを実行し、 育てていく中で、 このN-SIG は、おそらく学習 者ディベロプメントの実践の成果を客殴的に評価するという形で、 研究会の性格をもつようになるだろう。

最後に、 種の付録として、もう 二点、 おそらくここまでに述ぺたものよりは自明でない、 学習者ディベ ロプメントの内容と方法の実践的ヒントとなりうる情報源をつけ加えた ぃ。 ーつは教師自身の学習経験であ り、 もう一つは学習者自打が教室に持って·くる経験である。 これらは、 SIG の名前として、 トレーニングよりはディペロブメントという用語を 選んだ第二の、少々流行を追いかけたような理由に関係している。 近年、 教師のトレーニングというよりは教師のディベロプメントというほうが好まれるようになってきたが、 我々がディベロブメントという用語を選 んだのは、 そのアナロジーでもあるのである。 学習者(トレイニー)は何でも書き込める未使用の黒板では ありえず、 教師(トレイナ ー)はどれほど文献に通じていても、 言語学 習に関するかぎり、 すべての知恵の源であるとは限らない。

まず教師の側から考えよう。 特に自分の第一言語を教える絹合、我々は学習者ディベロブメントという仕事にいくぶんかの謙虚さをもって臨んだほうがいいかもしれない。 第一言語を実際に学習した意識的記ほを我々はほとんど持っていない。 (あ る言語の教師となるトレーニングを受けるのに、トレーナーがその言語を一度も教えたことのない人だったら、 うさんくさく思われるのではないだろうか。ある言語を学習したという意識のない人がその百語の学習 のしかたを訓諫するというのは、 そ れと同じことである)一方、 教師は、 人間として、過去に何かを学んだという意滋を持っている。 それは百語以外の科目やスキルかもしれないし、 教えている言語のある側面であるかもしれないし、第二あるいは第三、 第四の言語かもしれない。 自分自身 の記憶の中の、 特に言語に関する成功した学習、 失敗した学習について考えることで、 我々の学生に役立つ洞寒が得られ、 彼らと経験を共有する共謀者としてより信用性が(そして謙虚さも?)増すかもしれない。これは可能性を秘めた一樋の教師による研究である。 メンバーがそれぞれの言語学習についての内省を、 教 室で応用するだけでなく、 記事に嘗いてくれることを期待する。 言語学 習についての教師の内省を助けるために、 このN-SIG が他にどんなことを試みようとしているかについては、この号の他の記平をお読み頂きたい。

学習者が学習者ディペロプメントの内容と方法についてどんな貫献ができるかについては、 二つの提案をしたい。それは、 学習者は、 いい考えを持っているのに、 意見を述ぺる機会を与えられていないのかもしれないということと、 学習者ディペロブメントが学習者中心で、 他の点でも交渉によるものでなかったら、 惨めな失敗におわるのはもちろん、 学習若を疎外する危険も冒すことになるということである。 Sheerinは「学 習者ディペロブメントは、 代案を提供し種をまくことを目的とすべきであり、 特定の行動様式を学生に強制するべきではない」 (Sheerin, 1989: 34) と述ぺているが、 それに補足するなら、どんな種が育つかを見極めるためには、 土を知らなくてはならないということがいえる。 これもまた、教師による研究の課題である。出版された研究や他の環境で成功したといわれている実践方法だけに顆 ってトレーニングをするのではなく、 我々の学生の、現時点での学習スタイル、 学習ストラテジー、学習に関 する信念を、 一人一人について見ていき、 何が役に立ち、受け入れられそうかを見極めることが大切である。 さらに、 このN-SlG は研究会として、 日本人の学生や日本語学習者の学習スタイル、学習ストラテジ ー、学習 に関する信念について、 学術的研究 を進め、 そうした研究の結果を他の 文脈で追試するという独自の役割を持っている。

以上の提案を読者の皆さんが、 たんに思考を喚起するものとしてだけでなく、 行動のきっかけとして捉えてくだされば幸いである。 遠回りをしたが、学習者ディベロプメントが 何であり得るかという定義はできたと思う。 また、このN-SIG が存在理 由を見いだしていく方法についても、ある程度明らかにできたと思う。 しかし、 これらはただのアイディアで あって、 実践における学習者ディベ ロプメントとこのN-SIG の使命の定義は、 ともに我々がこれから何をするかにかかっているといえる。

翻訳:脊木直子
注:参考文献は英語版の最後にあります。